ある年、関西からヘルシンキ・ヴァンター空港へおりたち、乗り換え便を待っていた時のこと。まわりから聞こえてきた声に「近くに日本人がいるのかもしれないな」と思ってこっそり見渡したのですが、見慣れぬタイプの顔ばかり。「もしやこれがフィンランド語なのだろうか?」と、この言葉をもう少し聞いてみたくなりました。
2011年1月、手に入れたCDはSeminaarinmäen mieslaulajatの« Wunderbaum »でした 。音、声、音楽、すべてに魅了され、毎日繰り返し聞くようになりました。そして4月には、彼らのライブ« Come Back »ツアーのヘルシンキ公演へと向かっていました。これが、Seminaarinmäen mieslaulajat「セミナー丘の男声合唱団」と、私のフィンランドへの旅の始まりでした。
聞こえてきたもうひとつの「声」
その後、女性歌手Taru Nymanを聞く機会にも恵まれました。「職業詩人ではなく一般人の詩に作曲する」というKaj Chydeniusの作品のコンサートで、Kaj Chydenius本人がピアノ伴奏です。Taruのまっすぐで素直な歌声からは、自然や人生が聞こえてきました。シンプルに生きること、歌うこと。加工も調理もされてしない野菜をそのまま食べるような、「心の中」にあるものを、そのまま差し出されたような気がしました。
それはまた「こういう風に歌いたい」とずっと自分自身が理想に思っていた声が聞こえてきたときでもありました。
「フィンランド語では、単純なことを歌えるのかもしれない」と確信をもつようになったのは、その後、カレワラ物語やフィンランドの文学、特に「詩」にふれたからです。恋愛でもなく、人生のつらさと言うのでもない「日常」を、さらりと歌ってしまうことができる言葉だと思ったのです。
言葉は、声を伴います。男女ともなぜだか低音がよく聞こえ、なぜかしら安心感がある、それが私にとってのフィンランド語の響きです。
CDに収録された作品の多くは、Seminaarinmäen mieslaulajat 略してSemmarit(以下センマリット)の男声アカペラの合唱曲、Kaj Chydenius氏の2作品、そしてポップス歌手Jenni Vartiainenのヒット曲が入っています。 2曲の日本語の曲のうち「漂流」は、大友裕子さんが歌われた映画作品の主題歌です。彼女のハスキーヴォイスと叫ぶような歌が憧れでした。「今、私は一人で生きていく」と言うフレーズが、私の中で意味を持った言葉となり、長い年月を経て、自分の声でも歌っていいのだ、と思うようになりました。 3年間音楽非常勤講師を務めた高校の校風は比較的自由で、生徒たちが「想い出がいっぱい」を「第二の校歌」のように歌っていました。最初の教え子たちの卒業と同時に学校を離れた私には、文字通り「想い出がいっぱい」で、今もとてもとてもとても大事な曲です。
センマリットの直訳は「セミナー丘の男声歌手たち(合唱団)」となります。「セミナー丘」というのは、大学都市ユヴァスキュラの大学キャンパス地区の名前で、略してセンマリットは、この大学の学生たちから生まれたのです。ユヴァスキュラは地理的にはフィンランドの真ん中あたりといったところでしょうか。
フィンランドが国として公式に独立したのは1917年のことで、それ以前は長い間スエーデン、次にロシアのもとにありました。フィンランド語での教育を担う教師陣を育成する学校が、独立前の1863年にユヴァスキュラに作られました。これが現在の大学の前身で、その後、1934年に教育大学として、1966年にはユヴァスキュラ大学として発展を続けています。子供たちの教育にはフィンランド語と同様に音楽が重視され、教師準備学生たちも「歌と楽器演奏」が必須だったそうです。なお、男女平等のフィンランドでは、早くから女性を受け入れており、(女性)作家ミンナ・カントもここに籍をおいていました。
センマリットは1989年に誕生し、30年後の現在もプロとして活発に活動している合唱団?です。スーツ姿でアカペラ、歌い手たちがハンドフリーマイクで歌い、振り付けあり、音響を駆使し、照明、舞台装置あり、というヴィジュアル重視。「合唱団か、バンドか」と言うグループです。
歌われる曲は、すべて彼らのオリジナルです。作詞作曲編曲を全部ひとりで手掛けるメンバー、共作、詩人(歌詞という感じではない深さを感じるので)、また、よってたかって全員で作りあげることもあるそうです。多くのレパートリーから、ライブで「どの曲を歌うのか」を決めるときには、「平等に手をあげて投票」して決めるのだとか。
ライブツアーはフィンランドのそこかしこで行われるため、バス“モビーディック号”で移動。野外公演に対応できるライブ用トラックもあります。
教育学部の学生であった彼らは現在、小学校の先生、校長であり、また大学の先生や、音楽の先生も理系の先生もいます。教職を経て違う仕事を始めたり、歌のお兄さんとしてテレビ出演しているメンバーもいます。日本で、教職と舞台活動の両立の難しさあるいは不可能さを感じた私には、驚くべきことばかりです。
初めてのライブで一番印象的だったのは、コンサートの最後に観客が拍手するだけではなく、出演者が観客へ拍手する姿でした。平等以上に、フィンランドには「今まで知らなかった別の可能性がある」と思いました。友情、創造性、自分たちで考える力、創造性、共同作業、そんなことを思い浮かべるのです。
私は耳で聞いてアレンジしてピアノで弾くのが子供のころから好きです。中学時代にはそれが弾き語りになっていきました。フィンランド語の歌を歌いたいと思い始めてからは、CDを繰り返し聞き、少しずつ意味を探し編曲していきました。中学時代の夢は、大人になった今も、同じだったのです。 フィンランドはヨーロッパに加盟しています。初めて訪れた時の印象は、街中の4月の残雪のせいだけではなくフランスとは違っていて、まるで「いつか覚めてしまう夢」のようでした。だから「私がフィンランドにいた証」のように、少しずつ録音をとりだめしていきました。その中から、再度選んだ録音がCDに収録されています。 久しぶりに話す私のあやしげな英語をものともせず、辛抱強くコミュニケーションをとり、助けてくれた録音技師に深く感謝しています。センマリットが30周年を迎える2019年に、私も音楽を教え始めて30年になります。こんな偶然にも、感謝です。